こんにちは、ナビセブ編集部の谷口まりです。親子でセブに移住しました。観光とグルメの記事を担当しています。
独立広場に立つ石造の建物を見ると、サンペドロ要塞は長い間ずっと同じ姿で残ってきたように感じられるかもしれません。実際には、建物の年代と、そこで営まれた活動の年代は重なりながらも異なります。「いつ始まったか」に加えて「誰が何のために使ったか」を追うと、要塞が観光名所になるまでの道筋が見えてきます。ここではセブ市の要塞を対象に、拠点形成、軍事利用、公共的な利用、保存という流れを整理します。
ナビセブ編集部のまとめ
Fort San Pedro(サンペドロ要塞)の歴史は、1565年にレガスピの遠征隊がセブで築いた初期拠点にさかのぼります。しかし、現在の石造要塞をその年の建物と考えることはできません。軍事施設として始まった場所は、統治の交代とともに兵営や学校などへ用途を変え、戦後の解体案への反対と保存活動を経て、セブの歴史を伝える文化施設として残されました。
1565年は初期拠点の起点
サンペドロ要塞の出発点として紹介されるのが1565年です。ミゲル・ロペス・デ・レガスピの遠征隊がセブに到来し、スペイン側の拠点を築いた時期に当たります。初期の要塞は木造と説明されており、いま独立広場で目にする石壁と同じものではありません。現在の建物の姿をそのまま16世紀の風景へ置き換えず、まず防御のための拠点が成立したと捉えると、後の石造化との関係が分かります。
この起点は、セブという場所そのものの歴史の始まりを意味しません。要塞を中心とした説明は、あくまでスペイン側の拠点形成を軸にしたものです。レガスピの到来と要塞の成立を知ることは、植民地支配の広がりを考える入口になりますが、地域の歴史全体を一つの建物の創建年で説明することはできません。歴史案内にある「始まり」が何の始まりなのかを意識すると、年代の意味をより正確に受け取れます。
1738年と1739年は何を示すのか
現在の石造要塞を紹介する地元報道では、1738年という年代が使われています。一方、石造化の時期には異なる説明もあり、建物の全部分が一度に完成した年として単純化するのは慎重であるべきです。ここで押さえたいのは、1565年の拠点形成と、18世紀の石造要塞を別の段階として考えることです。SunStarも、レガスピに由来する施設の歴史と、現存構造に関わる1738年を分けて紹介しています。SunStarの要塞紹介(2024年10月19日)
さらに、1939年に設置された歴史標識の公開転記には、1739年の公的報告に記された要塞の姿が示されています。そこでは石とモルタルによる三角形の要塞と三つの稜堡が説明され、San Miguelには火薬庫に関する記述があります。1739年は標識が参照する報告の年であり、その数字だけで創建年や完成年を決められるわけではありません。標識の設置年である1939年も区別すれば、建物の年代、記録の年代、後世に顕彰した年代という三つの層が整理できます。
この区別は現地の説明板を読む際にも役立ちます。古い年号が書かれていても、建設、改築、出来事、記念のどれに結び付くかで意味が変わるためです。たとえば「ある年の報告に石造要塞が記されている」という情報は、その時点の姿を考える手掛かりになりますが、すべての石壁がいつ積まれたかを示す工事記録とは違います。サンペドロ要塞の年代を一つの数字にまとめずに読むことで、初期の拠点から残された建物へ至る時間の厚みが見えてきます。
スペイン軍の拠点から統治交代の舞台へ
スペイン統治期の要塞は、駐屯する兵士が活動する軍事施設でした。石壁や稜堡を持つ防御のための空間であることは、18世紀の姿を伝える標識からも読み取れます。ここでいう軍事施設は、壁の外へ向けた防御だけでなく、その内部で人員や物資を支える場所でもあります。火薬庫という用途に注目すると、要塞を単独の記念建築として見る場合とは異なる、当時の働きが浮かび上がります。
19世紀末には、スペインによる支配が終わる過程で、要塞もセブの革命勢力へ引き渡されたと沿革に記されています。この出来事を境に、スペイン軍が使った施設という位置付けが変化します。しかし、支配者の交代と建物の用途の変化は、必ずしも同時に進むわけではありません。次の米国統治期にも軍事利用が続いたことから、同じ要塞が異なる体制に引き継がれたと理解できます。
米国統治期の兵営と学校への転用
米国統治期には、サンペドロ要塞はWarwick Barracksと呼ばれる兵営の一部になりました。その後、コモンウェルス期には学校として使われたことが、都市景観の専門家Paulo Alcazarenの解説に記されています。兵士のための施設が教育の場になるという変化は、石造の外観だけを眺めていては分かりにくい歴史です。建物の形が残っていても、そこへ通う人と日常の目的が変われば、都市の中で担う役割も変わります。Philstarの用途変遷の解説(2016年9月10日)
戦争期の利用については、一般的な沿革に避難や負傷者への対応などが記されていますが、時期ごとの役割をひとまとめにすることは避けたいところです。第二次世界大戦後には、フィリピン軍が一時的に使用したとPhilstarの解説は伝えています。学校からそのまま観光施設へ移ったのではなく、その間にも軍による利用があったという流れです。要塞の近現代史は、軍事から民間へ一方向に進む物語ではなく、社会の変化に応じて用途が重なった歴史として読むと理解しやすくなります。
戦後の庭園利用と失われかけた要塞
戦後、要塞の内側には庭園が整えられ、動物園として使われた時期もありました。Philstarは、Cebu Garden Clubの関与と、1950年代後半に持ち上がった解体案に対する市民の反対を紹介しています。いま歴史建築として知られる場所も、当時から保存されることが当然だったわけではありません。古い施設を取り壊して別の用途に使うか、残すかという判断の対象になっていました。
庭園や動物園への転用は、軍事施設を市民が利用する場所へ変える一方、歴史建築としてどう保つかという別の課題も生みます。日常的に使われていることと、建物の状態が良好に保たれることは同じではないためです。解体案への反対があったという事実は、要塞を残す価値を地域の人々が主張したことを示します。今日の景観は、石造建築が自然に持ちこたえた結果だけでなく、残そうとする選択の積み重ねでもあります。
保存活動が文化施設への道を開く
1960年代以降の保存には、観光当局、Cebu Zonta Club、保存を担った建築家Leonardo Concepciónらが関わりました。Philstarは、1970年代までに要塞と独立広場が主要な観光の場として位置付けられた経緯を説明しています。ここでは建物を補修する行為と、歴史を訪問者に伝える場所へ用途を整える行為が結び付きます。防御のために築かれた施設が、その形と来歴を見てもらう施設へ変わった点が、大きな転換です。Philstarの保存活動に関する解説
保存は、この時期だけで終わった事業ではありません。SunStarによると、2013年の地震後にも修復が行われ、2015年10月26日に修復された施設がNHCPからセブ市へ引き渡されました。文化施設になった後も、建物を引き継ぐための対応が続いていることが分かります。この引き渡しは当時の修復の節目であり、それ以後のすべての工事の完了や、訪問日の全面公開を意味するものではありません。SunStarの修復・引き渡し報道
最後に
サンペドロ要塞の歴史を理解する鍵は、1565年の拠点形成と、後の石造化、近現代の用途変更を分けることです。兵営、学校、庭園などの役割を経て文化施設として残った背景には、建物を使う人々の変化と保存への働きかけがありました。現地で石壁や中庭を眺めるときは、その形だけでなく、誰が何のためにここを使ったかを思い浮かべてみてください。要塞は、植民地期の建築と、それを受け継いだセブの社会の両方を伝える場所です。
よくある質問
現在のサンペドロ要塞は1565年に完成した建物ですか?
1565年は初期拠点の起点で、当初は木造だったと説明されています。現存する石造要塞に関わる1738年などの年代とは分けて考える必要があります。
サンペドロ要塞が学校だったのは本当ですか?
コモンウェルス期に学校として使われたことが、地元の歴史・景観解説に記されています。米国統治期の兵営利用や戦後の軍利用と合わせると、時代によって用途が変わったことが分かります。
要塞が文化施設として残ったのはなぜですか?
1950年代後半の解体案への市民の反対と、その後の保存活動が重要な背景です。建物の修復と歴史を伝える用途が結び付き、観光・文化の場として受け継がれました。
